人は変われないのか。私はその問いに対する答えをもたぬまま、本稿の執筆と向き合い始めた。失敗は恥ではない。愚かさも、未熟さも恥ではない。私はずっとそう思ってきた。だが、繰り返すことは確かな恥だとも、知っていたはずだ。だから、もうこれ以上繰り返さないために、常識も、一般論も、過去の自分ですらも徹底的に疑ってみようと思う。その果ての答えが、どこに行き着くのかは分からなくても、私が変われる保証などどこにも無いとしても、自らに、そして偉大なるボルドーに、問いかけてみよう。本当にボルドーは、ロバート・パーカーに、誇りを、魂を捧げ続けてきたのだろうか、と。
ロバート・M・パーカー・Jr.
1975年からワイン評論活動を本格的にスタートさせたロバート・M・パーカー・Jr.(以降、パーカーと表記)は、ワイナリーやワイン商と蜜月の関係にあったジャーナリズム(そう呼ぶにはあまりにも腐敗していたが)に異議を唱え、圧力に屈さず、何者にも影響されず、ただひたすら自らの絶対的な価値観を、断固として突き通していた。まさに異端児と呼ぶべき存在であったはずのパーカーだが、ボルドーの1982年ヴィンテージに対する評論が、結果的に彼を帝王へと押し上げた。当時のほとんどのジャーナリストは、酸が低く、果実味が強い1982年ヴィンテージ(*1)を高く評価しなかった一方で、パーカーは「世紀のヴィンテージ」と絶賛した。それは、後に「パーカリゼーション」とも呼ばれることになる、「価値観の反転」の始まりでもあった。パーカーは1982年ヴィンテージのボルドー左岸五大シャトーに対して、オー=ブリオンを除く4シャトーに100点級の高評価を献上、続くグレートヴィンテージとされた1986年には、ラフィット=ロートシルト、ムートン=ロートシルト、マルゴーに高得点を与える一方で、オー=ブリオンには平凡なスコアを、ラトゥールに至っては(第一級という地位を考えれば)酷評とも言えるスコアを献上した。このように、メドック公式格付け第一級シャトーであっても容赦無く切り捨てるパーカーの聖域無き評論は、瞬く間にワイン愛好家の信頼を集め、彼の高得点はワインの価格に巨大な影響を及ぼすようになった。パーカーは、特にボルドー評論を得意としていたため、市場における影響力は桁違いに大きく、程なくして多くの有識者が、ボルドーがパーカーの実効支配下に置かれたと考えるようになった。「パーカーが好めば、ワインが簡単に高値で売れる」という単純な図式には、有識者だけでなく、多くの愛好家が「ボルドーのシャトーがパーカーを意識するのは必然」と盲目的に考えるのには十分すぎるほどの、絶大なインパクトがあった。
*1:当時は、長期熟成のポテンシャルが、ワインの評価に直結しており、酸の低いワインは評価が低くなる傾向にあった。パーカーは1982年を長期熟成型と評していたが、その点に関しては(1982年ヴィンテージの熟成状況を見る限り)、パーカーが正しかったとは決して言い切れない。
15年以上もの間、私もまたこの呪縛に囚われてきた。そして、この呪縛は私のボルドーに対する酷く一方的な嫌悪感の源でもあり続けた。
そんな私が、今こうして再びボルドーと真摯に向き合おうとしているのだが、冷静になって考えてみれば、過去15年間の私は、情報を自分にとって都合の良い形で解釈し続け、主観性も客観性も放棄し続けてきた愚か者の様に思えてならない。能動的なリサーチもせず、テイスティングによってワインと真正面から向き合うこともせず、ただただイメージだけで、メインストリームの最たるワインであるボルドーを回避するために、金満主義的(実際にはごく一部)在り方や、パーカリゼーションを盾に、言い訳をし続けてきた未熟者だったかも知れない。