ワイン造り、ワイン輸出入、ワイン販売、そしてワインを飲むこと。
自由意志の元に行われるそれらの行為には、どのような責任が付随しているのだろうか。
人類が科学と兵器を手にし、真に地球の支配者となって以降、ヒトが他のあらゆる動植物よりも優れた存在たるための「理性」は、自由と責任は表裏一体である、という普遍の真理によって守られてきた。
理性は動物的な感情や本能を制御し、尊重の精神を育む。
尊重の精神をもったヒトは、無意味に何かを壊したり、奪ったりはしない。
尊重の精神をもったヒトは、やむを得ず犠牲にしてしまったものごとに対して、責任を取ろうと行動する。
儒教文化で言うところの、「徳を積む」行動は、ヒトがヒトであるために、本来欠かせないはずのものだ。
しかし、高度経済成長期の真っ只中にいた人々は、本当に徳を積んでいたのだろうかと、疑問が湧く。
自らが謳歌した自由と成功と成長の裏にある、ヒトとしての責任を、どれだけの人々が意識しながら日々を過ごしていたのだろうか。
結果だけを見て判断するなら、少なくとも私が生きているワイン産業に限った話をするのなら、不十分だったと言う事実が、強烈に叩きつけられているのは否定のしようもない。