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2つの国、1つの文化 <Gorizia特集:前編>

イタリアのフリウリ・ヴェネツィア=ジュリア州とスロヴェニア領内に跨る街、ゴリツィア(*)は、いつか必ず訪れようと思っていた場所だった。

 

(*):スロヴェニア語ではGoricaゴリツァ。以降、両領土を合わせてGoriziaと表記

 

もちろん、Gorizia周辺で造られる極上ワインの数々に心惹かれて、という理由もあるが、私にとってのGoriziaは、自身のルーツとも重なる部分が多い場所なのだ。

 

少し、私のファミリーヒストリーを語ろう。

 

私自身は日本で生まれ育ったため、アイデンティティの比重はかなり日本人よりだが、私の祖国は朝鮮(一つのKorea)である。

 

そしてその祖国は、米ソ冷戦に巻き込まれる形で、南の大韓民国と、北の朝鮮民主主義人民共和国へと分断された。

 

ここから先は、私の祖父母(母方)の話となる。

 

祖父母は、ソウルで出会い結婚した。

 

1942年、祖父は日本軍からの徴用令状を受け、広島への赴任を命じられたが、長(日本で言うところの町長)が手を回してくれたおかげで、幸運にもそれを回避することができた。その代わりに2年間、鉱山勤務にあたったが、そこでの生活は極貧そのものであり、まだ2歳だった長女も赤痢で失ってしまった。

 

第二次世界大戦終結後、祖父は北側でキリスト教会の牧師として働いていたが、自身の命がキリスト教勢力への弾圧をさらに強め始めた金日成率いる朝鮮労働党(共産党)に狙われていることを悟り、1ヶ月間教会の塔の上で身を隠したのち、貧しい農夫に変装して、単身南側のソウルへと逃げた。

 

独裁政権のブラックリストに載ってしまった自身がそのまま北に留まれば、早々に命を奪われるのは避け難いという絶望的な状況の中、脱北に失敗すれば家族や教会にも魔の手が及ぶことを重々知りつつ、天命と神の導きを信じて、苦渋の決断をしたのだ。

 

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