悲壮感漂うワイン。
カベルネ・フランから生み出される、ロワール渓谷を代表する数々の素晴らしい赤ワインを一言で表すとそうなる。
華やいだスミレの香りと、力強い大地のトーンが交差し、ワイルドとエレガンスを行き来しながら、メンソールのような心地よい余韻へと誘われる。最高のテロワールと、最適な品種と、奥深い伝統が織り成していた確かな様式美は、その多くがすでに過去のものだ。
かつて、葡萄品種とテロワールの統合的特性である「青い」風味を、絶対的な悪と見なした評論家がいた。彼はそういったワインに平然と60~70点代という低スコアを叩きつけて、ボルドーだけでなく、ロワールのカベルネ・フランという伝統をも、根底から否定した。そこまでなら、ただの一意見に過ぎなかったはずだが、真の問題は別のところにあった。自らの感性を信じず、他者の、しかもたった一人の他者の評価を絶対として信じた主体性なき群衆が、意気揚々と非難の声をあげて同調してしまったのだ。まるで、突然手のひらを返すかのように。
世紀の変わり目を迎える頃には、ロワール渓谷の偉大な赤ワインは、すっかり様変わりしていた。
しかし、自らの在り方そのものを否定され、他者の「普通」を押し付けられ、ついにアイデンティティの改ざんに同意してしまったロワール渓谷の人々を責めるべきではないだろう。
彼らにも生活があり、守るべき家族や仲間がいる。
誇りだけでは飯は食えない。
彼らは、残酷で、無慈悲で、あまりにも一方的な仕打ちに耐え忍びながら、雌伏の時を過ごさざるをえなくなったのだ。
いつか世界が、彼らの「らしさ」を再び認めてくれる日が来ることを信じながら。