私は常に、理性でワインを探究してきた。
気候、土壌、地勢、葡萄品種がもたらす影響をマトリックス化することによって、神秘のヴェールに覆われたテロワールを観測、分析可能なものとし、そこに栽培、醸造における人的要因も加え、ワインに宿った特有のアロマ、フレイヴァー、ストラクチャーの根源に理路整然とした態度で向き合ってきたのだ。
ワインに対してそのようなアプローチを取り続けた理由は、単純化すれば「理解したかったから」の一言に尽きるが、【結果には、すべて原因がある。】というガリレオ・ガリレイの言葉を、幼い頃にその出自もコンテクストも知らずにどこかで聞きかじったまま、長い間盲目的に信じ込んできたのも一因と言えるだろう。
しかし、一般的にクラシック、もしくはオーセンティックと呼ばれるカテゴリーから探究範囲を大きく広げた結果、様々な在り方のワインとの出会いを通じて、私はこの世界に理性だけでは理解することができないワインが存在していることを認めざるをえなくなった。
理性でワインを探究してきたからこそ、その限界を知ることができたとも言える。
シュタイヤーマルク特集のPart.2、そしてPart.3は、可視化して客観視し、その構造を他者と共有することができる理性的なワインとは別次元にあるもの、そう、極めて感性的な世界の話になる。
究極的には主観にしかなりえない価値観であるため、ともすれば宗教的にすら思えるかも知れないが、私は自らの実体験を通じて観測してきた数々の現象に関して、嘘偽りなく、あらゆるバイアスも逆バイアスも排して、感性的でありつつも感情的には決してならぬよう、真摯に、慎重に、言葉を紡いでいくことをここに誓う。
ワインの生と死
「生と死」という強い言葉をあえて用いるが、ここにはネガティヴな意味も、ポジティヴな意味も含めていない。
単純に、その状態を端的に表すための比喩表現だ。
熱、極冷、紫外線、極端な湿気や乾燥など、ワインのコンディションを根本的なレベルで破壊してしまうものは少なからずあるが、ワインに「死」と呼ぶべき状態をもたらすものは、過度の亜硫酸添加であると私は考える。
亜硫酸には、ワインの中に潜む様々なマイクロオーガニズムの活動を強く抑制する力がある。これはあくまで停滞に近い効能であり、殺菌のような類のものではないため少々ややこしいのだが、大量の亜硫酸によってフリーズさせられたワインは、死、もしくは仮死と言える状態になると考えて差し支えない。
そして、その対象がマイクロオーガニズム、すなわち「生命」であるならば、死に至った生命が向かうのは、緩やかな腐敗という一本道である。
腐敗という言葉もまた比喩的であり、腐敗していくことがワインの味わいにとって必ずしもネガティヴな現象とは限らないのは、周知の事実。さらに、その変化を極々緩やかなものにとどめているのは適量の亜硫酸でもあるため、ここではあくまでも「過度の」添加(*)の話をしているとご理解いただきたい。
(*):pH値や残糖分などの条件によって、安定化のために必要とされる亜硫酸添加量が異なるため一般化は実質的に不可能だが、平均的な辛口赤ワインの場合70ppm、白ワインの場合90ppmを超えた辺りから、「過度」の領域に入り始めると筆者は考える。
一方の「生」は、「死」とは明らかに異なった挙動を示す。
生が辿る道は死のような一本道ではなく、複雑なカーヴを描きながら、時にラウンドアバウトになり、時に高速道路となり、時に酷く渋滞する。
均一性を求める現代社会の中では、プロダクトとして完全に不合格と言えるほど不安定にもなりえる「生」の状態にあるワインは、当然一筋縄では行かない。この世界のあらゆる生命と同じように。