10月14日、「プレミアム日本酒 創造LABO」と題したセミナーが、「株式会社いまでや」小倉秀一氏(代表取締役)、「株式会社ヴァンパッシオン」川上大介氏(代表取締役)両名の主導の元、都内で開催された。
1990年に特定名称酒の基準を含む「清酒の製法品質表示基準」が適用され、1992年に悪名高き日本酒級別制度が完全廃止されて以降長らくの間、日本酒の価値創造は、「精米歩合」がその中核に置かれてきた。
精米歩合が低くなればなるほど原価は上がり、製造工程上の手間(作業工数、作業時間)もかかる。さらに「しずく取り」といった工程を合わされば、総合的なコストはどんどん上がっていく。
実直な日本人は、そのコストに対して素直な価格設定をすることによって、高精米=高級酒という価値創造を行ってきた。現在まで続く特定名称酒の順調な成長曲線(清酒という大きなカテゴリーで見れば下降曲線)は、精米歩合という「分かりやすさ」に支えられてきたのは、間違いないだろう。
セミナーの様子
競争の終焉
しかし、長きに渡る「高精米競争」は既に終焉を迎えている。
10%代前半、もしくはそれ以下という超高精米の日本酒は高額で販売されてきたが、高額を肯定できるほどの高品質に直結するという印象を、消費者に植え付けることに失敗したのだ。
日本酒の「らしさ」の探求の過程において、やみくもな高精米に対して疑問が浮かび上がってきたことも大きいだろう。日本酒とワインを隔てる決定的な要素である「アミノ酸」の元となるタンパク質や脂質は、コメの外側により多く含まれる。でんぷんが主体となる心白だけになると、アミノ酸含有量が少ない、よりすっきりとした味わいになる。単純に考えると、よりすっきりしたものが高価格で、複雑な味わいのものが低価格であるという構造は、ワインとは完全に真逆の価値観だ。この価値観の反転そのものは、日本酒らしさという意味において、高く評価すべきものだと筆者は考える。しかし、真に偉大な酒とは、往々にして、相反する要素を内包しているものだ。それはつまり、軽やかさと複雑さの共存、と言い換えることもできる。高精米競争は、極限まですっきりとした酒質に、積極的に麹や酵母の「色」をのせるという戦略に固執するあまり、この価値観(軽やかさと複雑さの共存)の創出に失敗したと言えるのでは無いだろうか。
さらに、サスティナビリティに対する意識が世界的に根付いてきたことも大きいだろう。消費者側から見れば単純に「そんなに削って勿体ない」という程度の認識だと考えられるが、酒蔵はより複雑な認識を抱えている。本記事で深堀りはしないが、2018年に減反政策が廃止されたことによる実質的なコメの自由化(*)によって、積極的にコメ造りに参入する酒蔵は緩やかだが確実な増加傾向にある。自分で育てたコメの味をできるだけ豊かに表現したい、無駄にはしたくない。農家となった酒蔵がそう考えるのは当然だ。
*理解しやすくするために、本記事ではあえてコメの自由化による影響を単純化して記述している。詳細はまた別記事にて。
違いは何に宿るのか
ワインに「違い」が宿る要因は、1.テロワール、2.テロワールと品種の相性、3.畑仕事、4.醸造(技術的、手法的)、5.ヴィンテージの5つに簡略化して集約することができる。
一方、日本酒の場合は、そう単純には行かない。少々専門用語の羅列になるが、理解が難しい方は、単純に「それらによって違いが生じる」と思っていただければ問題ない。
どれだけ単純化しても、以下のようになる。
1. 精米歩合
(主にアミノ酸の含有量に影響するが、他にもアミノ酸に関わる要素はある。)
2. 麹
(日本酒の99%以上は黄麹で造られているため、白麹や黒麹は考慮対象外としても、突き破精型と総破精型の違いは大きい。)
3. 水質
(超軟水、マグネシウム系軟水、カルシウム系軟水の違い。)
4. 乳酸菌:速醸、生もと、山廃
(培養した乳酸菌か、自然の乳酸菌かの違い。全く同じ乳酸菌であるはずだが、実際には味わいに違いが生じる。)
5. 酵母
(香りの面ではイソアミル優勢型、カプロン優勢型に大別でき、リンゴ酸やアミノ酸に強く影響するものや、発酵力、高アルコール耐性等、様々な特徴によって分かれる。)
6. コメ
(品種による違い、産地による違い、慣行か有機か等の栽培方法による違い。)
7. 特殊製法
(しずく取り、木桶、菩提もと等による違い。)
8. その他製法
(火入れ、加水、濾過、清澄、アルコール添加といった様々な製法が大きな影響を与える。)
日本酒の「違い」を司る変数が、いかに多いかがご理解いただけただろうか。
有機米を使用するケースも増えてきたが、品質面での貢献はまだ未知数の部分が多い。
「違い」と「優劣」の関係
日本酒を取り巻く多種多様な変数によって生じる「違い」は、必ずしも「優劣」に繋がるとは限らない。むしろ、その変数のほとんどが、直接的には横軸である「違い」に関連しているものであり、縦軸である「優劣」に対しては間接的にしか関連していないのだ。
その事実を目の当たりにすると、精米歩合による価値創造が破綻したいま、新たな価値創造がいかに困難な道のりであるかは、容易に想像が付くだろう。
しかし、困難だからと言って「優劣」の追求を諦めるのは、決して英断とは言えない。「優劣」の価値観は、価値創造にとっては極めて重要な要素であり、如何に多様性と個性の時代になったとしても、不動の価値として共存し得るはずだからだ。
筆者個人としては、その「優劣」の尺度にワインの方法論を用いることには賛同しかねるが(西洋コンプレックスからの脱却は、日本酒業界にとって命題の一つとなっているのではないだろうか!)、あくまでも検証の材料として、本記事では取り上げていく。
ワインにおける「優劣」の判断基準は、大部分が公式な「格付け」に準拠している。ここでいう格付けとは、原産地呼称制度そのものを指しているのではなく、世界各地(主にヨーロッパ伝統国)の原産地呼称制度が部分的に内包している、階層型の制度のことだ。
この階層型格付けには、大きく分けて2つのパターンがある。
テロワールに基づいたブルゴーニュ型。
生産者に直接与えられるボルドー型。
である。
ブルゴーニュ型
日本酒にブルゴーニュ型を当てはめる場合、実はその土台は既に出来上がっている。兵庫県の吉川、東条に代表される特A地区の存在だ。筆者の経験上、特A地区のコメは、酒質に決定的な「優劣」をもたらすと断言できる。ワイン的な考えであるという点を除けば、日本酒の新たな価値創造にとって、最も有効な要素の一つであるのは間違いないが、それを統制する仕組みは無い。あくまでも任意である特A地区の表記は、本田商店(銘柄:龍力)のように表ラベルに堂々と書かれている場合もあれば、磯自慢酒造(銘柄:磯自慢)のように裏ラベルにひっそりと書かれている場合もある。どちらにしても、そのような情報を積極的にありがたがるのは、生粋のマニアに限られているのが現状だ。
現状では、数多くの蔵元が自発的にテロワールの違いをアピールしているだけだ。残念ながら、この状況では、「集の力」が発揮されにくいし、途方もなく時間がかかる。
もし、日本酒の新たな価値創造の一環として、ブルゴーニュ型の格付けを採用するのであれば、国税庁が主体となって、厳格なルールを定める必要がある。
具体的には、兵庫県の場合、特A地区というベースの上に、東条、秋津、吉川といった小単位の上位階層の表示ルールを厳格化した上で検査体制を構築し、表示を義務化するのは難しいとしても、積極的な表示を推奨していく必要があるだろう。場合によっては、特A地区米を使用した日本酒の最低販売価格を設定(四号瓶で一万円以上、等)した方が効果的かも知れない。もちろん、それは極めて時代錯誤なやり方であり、筆者自身はあまり賛同できないが、それほどの「カンフル剤」が必要な状況であることは、確かな事実だ。
ボルドー型
日本酒にボルドー型を当てはめるのは、正直賛同できない。いや、理想論で言えば、悪くないアイデアなのかも知れないが、そこにはあくまでも、極めて公正なものとして定められた場合のみ、と言う厳しい条件がつく。酒蔵の長である蔵元は往々にして地域の有名人でもあり(それ自体は大変素晴らしいことだが)、世界屈指の忖度社会である日本で、公正が保証される可能性は、万に一つも無いだろう。
仮に公正なボルドー型格付けを導入するとしても、評価基準の設定が極めて難しいのは明白だ。客観的評価の基準として、品評会等の成績が挙げられる可能性は高いが、(酒蔵には申し訳ないが)全国新酒鑑評会にしろ、世界各国の様々なコンペティションにしろ、筆者はその結果を全く信用していない。それらの成績は、少数の専門家による主観的評価の集合体に過ぎないからだ。そもそも、特定のスタイルの日本酒が受賞しやすい、などと言われている時点で、信憑性は限りなくゼロに近いし、多様性の中にある完成度を認めない時点で、あまりにも前時代的だ。
ボルドー型の派生系であるサン=テミリオン型のように、評価年から十数年以内の「市場価格」、「評論家の評点」といった要素を含めるのも、やはり前時代的発想である。
日本酒に関連する変数の多くは、酒蔵の「技術」として集約される。そして、その技術差は当然酒質に現れる。実態として、技術の高い酒蔵と、そうでない酒蔵が明確に分かれているにも関わらず、その技術を公正に評価する仕組みが無いために、日本でボルドー型を採用するのが実質的に不可能と考えられる現状には、もどかしい感情を禁じ得ない。
総合的主観評価
「違い」に関連する変数をどれだけ細かく議論しても、価値創造と言う大きな結果に繋がる可能性は低いだろう。横軸である「違い」は、どこまでも行っても「好みの問題」から抜け出すことはできないからだ。やはり、とりあえず現段階では、多様性や個性といった現代的価値観を横に置いてでも、「優劣」を中心に議論を重ねていくべきだと筆者は考える。
ブルゴーニュ型とボルドー型の検証からは、2つの「優劣」に関連した価値観が導き出されている。テロワールと技術だ。テロワールに関しては、国税庁(農林水産省)の働きに期待したいところではあるが、技術の評価には難題が山積している。おそらく、テロワールと技術の両方を含む、公正かつ公的な評価の導入は、非現実的だろう。国が動けないのであれば、私のような専門家が、皆様のような消費者が、日本酒に向き合っていく上での意識を変えていく必要がある。むしろ、(残念ながら)それが唯一の現実的な方法だろう。
実はもう一つ、優劣の判断基準となり得る変数がある。
熟成、だ。
日本酒の熟成は非常に複雑で、まだまだ不明な部分も多いが、不確定要素が多い中でも、熟成温度は非常に大きな影響があることが明らかになっている。
室温(平均26度)、低温(平均13度)、冷温(平均4度)、氷温(氷点以下)と大まかに4つの熟成温度帯に分けることができるが、温度が高いほど熟成は早く、強く(褐色化、酸化的熟成)進み、氷温になると非常に遅く、緩やかな(ほぼ褐色化はせず、酸化的特徴もほとんど見られないが、複雑でまろやかな味わいになる傾向がある)進み方になる。
別の角度から見てみよう。十分に高い精米歩合(35%もあれば十分だろう)で、すっきりと軽やかな酒質を実現した上で、冷温、もしくは氷温の長期熟成によって、複雑性を高めていけば、偉大な酒の指標とも言える、軽やかさと複雑さの共存が可能となるのだ。
室温熟成に関しては、非常に早く酸化的特徴が出てくるため、味わいにおける紹興酒との境界線が微妙になってくる。「違い」としては興味深いが、「優劣」とは位置付け難いだろう。
低温熟成は、非常に優れた古酒が、主に山廃、生もと系で造られているが、「違い」と「優劣」の狭間に位置すると考えるのが現状では妥当だと思う。
やはり、明確に「優劣」となり得る可能性が高いのは、冷温か氷温だ。
とはいえ、問題が無いわけでは無い。長期熟成を温度管理下で行った場合、その温度が低くなればなるほど、コストが上がる。つまり、価格にもより色濃く反映される。
一方で、これはワインにおいても同様なのだが、長く熟成させる=美味くなる、とは全く限らない、と言う難点も生じる上に、「飲み頃」の評価自体が、かなり主観的だ。
筆者自身は、精緻に管理された熟成を経て出荷された日本酒は、まさに極上の名にふさわしいものと考えているが、その価値観が多数と共有し得るものであるのか、そうで無いのかは、正直定かでは無い。
このように、日本酒の新たな価値創造は、前途多難だ。
しかし、いくつかの可能性は確かに示されている。
テロワール、技術、熟成。
客観性をもたせることが難しいなら、「優劣」となり得る可能性を絞り込んだ上で、それらを総合的に、かつ主観的に深く捉え、評価基準を構築していくと言う方法もある。
品評会等の成績は気にせずに、一人一人が真摯に、主観的に向き合えば、おのずと道は開かれていくだろう。「優劣」の本質とは、そういうものだ。
そして、最後に消費者の立場にある方々にお願いをしたい。
新たな価値創造が進めば、一部の日本酒の値段は跳ね上がる(既に跳ね上がっている銘柄も多々出現している)だろう。これまでの常識が覆されることもきっとある。場合によっては、精米歩合80%で、四合瓶価格三万円という日本酒が登場する可能性すらあるだろう。
もし、そのような変化が起こったときは、喜んでいただきたい。
日本酒の、新たな価値が、認められたのだと。